To LOVEる -とらぶる- ダークネス 第19.5話「Nostalgia? 〜あの時、あの場所で?〜

「珍しいわねぇ、唯がアルバムを見たがるなんて」
「べっ、別に! たまには昔を振り返ってみるのも悪くないなぁって思っただけだから……」
「ふぅん……見終わったらちゃんと本棚に戻しておくのよ」と洗濯物を畳みながら言うお母さんと互いに背を向けあいながら、私は私ではーいと生返事でその場を切り抜けてそそくさと自分の部屋にこもる。別に悪いことをするわけでもなしリビングで堂々と鑑賞すればいいのに、と思いながらもお母さんやお兄ちゃんに変に勘ぐられるのだけは気恥ずかしくて絶対に避けたい。
 ベッドの縁に座って、5冊組みの分厚いアルバムの2冊目を手に取る。出生から幼稚園卒園までは目当てじゃない。彩南小学校の校門の前でぴかぴかの赤いランドセルを背負って、どこか居心地悪そうに佇んでいる入学式の日の私の姿を皮切りに、ああこんな頃もあったものだと適当に読み飛ばせばいいような思い出になんとなく寄り道してしまって作業は捗々しくない。
 遅々として進まないなりに7歳、8歳、9歳とページを繰りながらアルバムの中で成長して行く私のそばに、探している男の子の姿は期待に反して見つからない。結局あの子は何者だったんだろう?  彩南神社で出会った、ツンツンと尖った髪型をした男の子。桜の枝木に登って降りられなくなった子猫を助けようとして登って降りられなくなった私、を助けてくれた優しい男の子。ひとたび思い出してしまうとどうしても忘れることができない。もしかしたら、と当てはあるにはあるけれども……やはり確かな証拠がなければ納得はできない。 
 そもそもどうしてあれ以来、一度も出逢うことがなかったんだろう? 他の、隣接する学区の子だったのだろうか? 小学校では同じクラスになったことはなかった。他のクラスはどうだったろう? あの頃の私は真剣に探したのだろうか? ……だろうか? だろうかって何よ、自分のことでしょ、なんでそんないい加減にしか覚えてないの? と、この歳で昔のこともろくに思い出せないのかと自分に嫌気がさす……それとも何か思い出したくないことでもあって、無意識的になるべく考えないよう記憶に蓋でもしていたのだろうか? そう思いつつページを繰って飛び込んできた写真に、思わず視線が釘付けになった。
 見覚えのある服装をした私の姿があった。細かなレースの入った白いブラウスに黒いミニスカート、本格的に髪を伸ばす前の、左右にぴょんと垂れた短いツインテール。10歳だったか11歳だったか、その頃お気に入りだった赤い靴を写真の中でも履いている。家の前で面倒臭そうに早く登校したがっているその表情は、始業式に撮られたものだ。この年頃にはもう写真に撮られるのがなんだか気恥ずかしく思えてきて、カメラを持ったお父さんを鬱陶しく感じていたのが印象的で今でも覚えている。そう! ちょうどこの頃だ! この頃に、あの男の子と出逢ったんだ! ここからの記録がいよいよ本番、重要な手がかりになるに違いない! そんな写真の隣には、ピンク色の水着を身に纏って、膝を直角に折り曲げた私の姿があった。一瞬、我と我が目を疑った。
古手川挿絵01
 その写真の中で、私は真剣な表情をしてカメラに向かって何かを口走っている。大きく開かれた脚、画角に迫る蹲踞のような姿勢を保って見せつけるように露わな水着……なのかレオタードなのか、よくわからない、とにかくハレンチ極まりない真っピンク色の衣装……はハレンチにも腰骨をえぐるような急角度でまだ幼い私の身体に容赦なく貼り付いていて、それを恬として恥じるつもりのないばかりかむしろ見せつけるように鋭く指先を伸ばした両手がそのピンク色と肌色の境界線を「ここだ」と言わんばかりになぞっている。両腕に万力が込められているのは明白で、振り上げ様が残像となって写真に写り込んでいる。
「なんなの、これ……?」
 なぜ昔の私がこんな格好をしているんだろう、なぜこんな写真が撮られているんだろう、なぜ当たり前のようにアルバムに貼られているんだろう、なぜ私はそれを知らず何も覚えていないんだろう。数多ある「なぜ」がぐるぐると頭の中を駆け巡り、胸騒ぎが大きな心音となってドクドクと鼓膜を打ち鳴らし、嫌な汗が身体中からどっと滲み出てくる。気がつくと私はそのハイレグレオタード姿の写真をアルバムから引き抜いて、空いた隙間を他の写真を動かして不自然のないよう調整していた。本能的に誰かに見られるとマズいと感じたからだ。しかしなぜマズいのか、それすら私には理由を言語化することができなかった。アルバムに載っている以上、お父さんにでもお母さんにでも、最悪お兄ちゃんにでも聞いてみればいいのに。「ああ、それはいついつどこそこのお遊戯会の練習の時の写真だね」なんて、蓋を開けてみれば至極なんてことのない解答が返ってくるかもしれないのに。いや、と頭を振る。
 引き抜いた写真をまじまじと検分する。妙ちくりんなポーズを取っているハレンチな私の周囲、背景の壁や天井、写り込んでいる窓から察するに、そこは我が家ではないということだけはわかる。壁にはありふれた白いクロス、天井には埋め込み式の白熱灯、小窓の黒いアルミサッシ、洋室に似つかわしくない折りたたみ式のちゃぶ台、掃除の行き届いていないガスコンロ、湿った煎餅布団、眉をしかめたくなるユニットバス、電源を点けるとガタガタと異音を発する型遅れのエアコン。それらくすんだ色合いを帯びた家具調度とは対照的にピカピカと光り輝いて部屋の中央に鎮座している真っ白いおまる……?
 写真をポケットにしまうと、家を出て徒歩で東を目指していた。衝動に駆られたから、というよりも、写真に写っていない部分を鮮明に思い浮かべることが出来てしまった不気味さにじっとしていられなくなったというのが正直な気持ちで、あの頃の私と同じように彩南神社の方角へ向けて足を運んだ。
 あの頃の私も、毎日のようにこの辺りをうろうろしていた。あの男の子のことが気になっていた、というよりも、きちんとお礼が言えていなかったのが心残りだったからだ。とはいえ小学生の女の子ひとりで探し回れる範囲などたかが知れていて、校区の外に出るのは躊躇われたせいもあって同じところをぐるぐるするだけに留まって成果も芳しくなかった。そんなことを繰り返していたある日、道に迷って帰れなくなったことがあった。坂の上の神社を目印に家までの距離と方角を逆算しようにもそもそも高所が見当たらない。ひとたび目印を失うと、ふだん見慣れているはずの街並みが意図せず放り込まれた迷路のように見えてきて心細くなってくる。おまわりさん、いや、この際誰か大人の人に道を尋ねようと周囲をきょろきょろしていると、買い物袋を提げた人影が目についた。他にも何人か通りがかったのに、その人影だけを後ろから追いかけたのは、「彼」に見覚えがあったからだった。直接声をかけるでもなく、一定の距離を取って尾行の風情で街並みの迷路を左へ右へ、「彼」が行き着いた文化住宅、その一〇六号室の扉を、幼い私は躊躇することなく勢いよく開いた。
「はぇ?」と、不意を突かれて上ずった当惑の悲鳴を短くあげた「彼」の姿を上へ下へ、眺めて私がビシッと人差し指をまっすぐつき立てた。
「あなた、『パンスト兵』ねっ!」
 全身を赤褐色の厚手のタイツで覆い、頭に女性もののパンティーストッキングを被った見るからに怪しい男。その出で立ちは、その頃観たことのあるアニメ映画に出てきた下っ端悪役に瓜二つで、当時の私にはそれが空想のスクリーンから抜け出してきた本物にしか見えず、何か良からぬ悪事……映画でやっていたような……をする前に阻止せねばならないと無根拠に確信していた。そんな私の毅然とした態度を見て取るや否や、頭にすっぽりパンストを被った変質者はその場に突っ伏して懇願するように額をワンルームのフローリングに擦り付けた。
「どっ、どうかこのことは!」
 その後も「ここは穏便に」だとか「危害を加えるつもりは毛頭」だとか「警察にだけは」だとか平伏しながら女子小学生に許しを乞うパンスト頭の意外な対応に、私は唖然としながらビシッと立てた人差し指をひとまず収めた。
 ちゃぶ台を挟んでパンスト頭の怪人が正座をしながら、自身よりひと回りもふた回りも小柄な少女に対して何度もぺこぺこ頭を下げている。事情を聞くところによると、あの映画は実は本当にあった出来事で、この現実世界で誰もそのことを覚えてないのは自分の親分がこの地球から退去するときに、悪さをした人類に対して大規模な記憶操作を行ったからだ、とか、その際に自分だけがうっかり母星へと帰投する宇宙船に乗り遅れてしまったのだ、とか、母星や母船に連絡を行ったり自力で帰ろうとしたりするためには特殊なエネルギーが大量に必要で、それを本隊から大きく離れて孤立した今のような状態では賄うことができずどうにも困り果てているのだ、とか、合間合間に「すいません」と相槌のように入れながら、パンスト頭は俯き加減にとても辛そうにしている。
「今は残り少ないエネルギーを変装のために回しているのが精一杯という情けない有様で……すいません……」
「でも、私にはあなたがどこからどう見てもパンスト頭にしか見えないわ」
「それは……なんでなんでしょうかね、普通の人間の目には何の変哲もない地球人のおじさんに見えるはずですが……もしかしたら変装するためのエネルギーすら切れかかっているのかも……すいません、すいません……」
「ああもう、ウジウジしないでよね! 男子のくせしてみっともない!」と、クラスの男子にするように一喝してみせると案の定「すいません」の連呼が始まる。その情けない姿に呆れながらも、当時の私には彼の説明が真に迫っていてとても嘘だとは思えず、知り合いが誰もいない地に放り出される不安感は先刻自分も体験したように辛いものに違いなく共感できるうえ、彼の心細そうにプルプル震える様子はあの日の桜の枝に掴まっていた子猫に似て同情を強く誘うものがあった。
「しょうがないわね……あなたがもし二度と悪さをしないって約束できるのなら、助けてあげてもいいわよ」
「ほっ、本当ですか? 約束します! というかもうそんなことする余裕もないですし……ああっ今のは別に悪さがしたいって意味では! すいませんすいません……」
「いちいち謝らない! まったく、うるさい男子も嫌いだけど、あなたみたいなのの方がもっと嫌いだわ……まあいいわ、それよりさっさと済ませちゃいましょ。電話借りるわね」
「はぇ? すいません、どこにかけるおつもりで……?」
「そんなの決まってるじゃない。警察か、市役所でもいいわね。私が説明してあげるから、あとは国のえらい人がなんとかしてくれるわ」と私がそう言い終わるのを待たずに、パンスト頭がちゃぶ台に突っ伏して悲鳴みたいなため息を吐き出したかと思うと、子供のする駄々っ子みたいに身体を床に投げ出してじたじた暴れ始めた。「それで解決したらこんな変装生活なんてしていない」だとか「正体がバレたらどんな目に遭うかわかったものではない」だとか「こんな地球人の子供がなんとかしてくれると少しでも期待した自分がバカだった」だとか、悲嘆をまくし立てていたパンスト頭が「ふぁっ」と不意に素っ頓狂な声を上げてガバッと起き上がった。
「あの、すいません……僕のこと、助けてくれるん……ですよね……?」

 あの文化住宅のある辺りを探し回ってみたが、結局それらしき建物を見つけることはできなかった。もう取り壊されてしまったのか、それともまったく見当違いの方角を当たってしまっているのか、そもそもそんな建物なんて存在しなかったのか……? 諦めて家路につく頃には、得体の知れない薄気味悪さはどこかへ行ってしまっていて、代わりに全身をカーッと上気させる羞恥心と怒りを強く感じていた。あの後、私はあんなハレンチな……!
「あれ? 古手川?」
「ゆっゆゆゆ結城くん……?」
 思ってもない場所で思ってもない人物と遭遇し、それが常日頃警戒している要注意人物だったこともあってか、とっさに飛びのいて距離を取ってしまうと、結城くんがアハハ、と気まずそうに笑いながら頰をぽりぽりと掻いている。
「そんな大げさに嫌がらなくても……」
「ごっごめんなさい、つい……。なんだか珍しい場所で会ったわね。結城くんは何しにこんなところへ?」と私が訊ねると、結城くんは右手に持った小さな手提げ型の移動用キャリーを私に示した。猫でも入っているのかと少しわくわくしながら屈んで覗いてみたが空っぽのようだ。
「それがさ、ルンから預かってたペットが逃げ出しちゃって、さっきから探し回ってるんだけど全然見つからないんだ」
「ルンさんのペットって、まさか……」思い出すだけで頭がくらくらする。いつだったか学校に迷いこんできたそのスカンクみたいな宇宙生物が巻き起こしたトラブル。本当に結城くんと関わるとロクなことにならない。
「あっ……」
「ん? どうした古手川?」と、私の洩らした声に反応して背後を振り返ろうとする結城くんをとっさの閃きで引き止める。
「そういえば私、それっぽい仔、さっき見かけたかも」
「本当に? どこで?」と振り返りかけた結城くんが向き直って嬉しそうにしているので、文化住宅を探していた道筋から適当な目撃情報をでっち上げて告げると、彼は丁寧に何度もお礼を言い言い私の来た道を駆け去って行った。
 結城くんが去ったのを確認すると、私は先刻思わず声を漏らしてしまった原因と再度視線を交わした。民家の生垣にもぐり込むようにして息を潜めている小動物、子猫くらいの大きさに黒い体毛、頭頂にたてがみのようなふわふわした白い毛を立たせている出で立ちは、併せ持った凶悪な能力に反してよくよく見るとかわいらしい。性格も至極おとなしく、おいでおいですると生垣からトコトコ出て来て、差し出した私の掌をまじまじと見つめている。
「結城くん、ルンさん、ごめんなさい……」と、ひとりごちると両腕で抱え持ってキョロキョロと辺りを見回す。そのまま誰にも見つかりませんようにと心の中で、良心の呵責に耐えながらコソコソと帰路へ着いた。
 私に懐いてくれたのか、モドリスカンクは自室へ連れ帰ったあとも鳴き声ひとつあげず静かにしてくれていた。おかげで私は何食わぬ顔で夕食を終えると寝支度を整えるふりをしてまんまと自室へと引きこもることに成功した。お風呂から上がりパジャマ姿のまま、後ろ手でドアに鍵をかけると、クローゼットに隠れてもらっていた彼(彼女?)はふわぁと欠伸をすると私のベッドにぴょんと飛び乗った。そのままくつろいでもらうとして、と私は開け放したままのクローゼットに近寄りながら、ごくりと大きく唾を飲み込んだ。先刻アルバムを鑑賞していた時のように心音が耳鳴りのようで騒がしい。
 クローゼットの中のいつも使っているチェストの最下段右奥、下着類を安置している中に、隅の方でくるくると折り畳んで下着のひとつに擬態させていたピンク色の布地がひとつ。私も忘れていた私の秘密。思い出したくなかった秘密。
 例の建物の所在までは思い出すことができなかったが、「これ」を足がかりに何か思い出すこともあるかも知れない。ざわざわと胸がむず痒くなるような感覚に襲われながら、手に取った布の擬態を解いていく。ぱさり、とV字が広がりきると、布地は本来の鋭い三角形の正体を露わにした。
 写真の中の私が身に纏っていたその布地。水着なのかレオタードなのか一見した限りではよく分からなかったが、こうして実際に手で触ってみても判然としない。柔らかく、手に吸い付くような抵抗感があるかと思えば、撫で付けてみるとさらさらつるつる、となめらかに指を掌を這わせる快さがある。生地を裏返してみるが、タグやブランド名の縫い付けなどは一切存在しない。既製品ではないのだろうか? それにしても、と表に返して掲げ持って姿見に映して眺めてみる。
 布地には劣化の痕跡が一切認められなかった。あれから何年も経っているというのにも関わらず……そんなことが有り得るのだろうか? 丁寧に保管されているのならいざ知らず、誰にも見つからないよう丸めて押し込まれていたにしてはまるで一度も着用されてない新品同様のように見える。
「あんなに着ていたのに……」
 今、私は何を……? 姿見の中で、ピンク色の布地を掲げ持った私は頬を真っ赤にしながら呼吸を荒げている。私は本当にこれを……?  当たり前だが、布地を押し広げるようにしてみてもとてもじゃないが今の私の身体ではそれを着用することは出来なかった。あれから私もずいぶん成長した、とパジャマを脱いで姿見の前に立つと実感できる。
「お願い、あなたの出番よ……」とベッドの上で眠そうにしている彼(彼女?)に向かって語りかける。いざとなると意外にもちゃんと発揮してくれないのが能力というもので、鼻をねこじゃらしでくすぐってみたり、ひっくり返してお腹をぷにぷにと触ってみたり、不意打ちのつもりでワッと驚かしてみたりしてみるが成果は捗々しくない。イライラしながら彼を睨みつける。
「本当にこれを、着なくちゃダメなの……?」
「はいっ! お願いします、お願いします! 人助けだと思ってどうかひとつ、何卒っ何卒っ!」
 確かに言ったけども……と、手渡された物にあからさまな嫌悪の眼差しを向けていると、パンスト男がまた床に頭を擦り付け始めた。
「先ほども言った通り、着たからといって害は全く無いですから、どうか安心してください! ただそれを着て、ポーズを取ってくれるだけでいいんです! お願いします! お願いしますっ!」とひとしきり懇願し終えると、ささっそれではこんなおじさんが居ては着替えにくいでしょうから、と口走ってパンスト頭がへらへらしながらそそくさと外へ出て行く。部屋にひとりぽつんと取り残された私は手渡された物体と向き合いながら、時間が停まったような心持ちに襲われた。春の陽の光がななめに差し込んでいる。
 窓の外は隣室と区切られた狭い庭になっていて覗き込まれる心配は無かったが念のためカーテンを閉めきって、はああああとため息をつきながらブラウスのボタンを外していく。一度助けると言った手前、それを反故にするような不誠実な人間にはなりたくない。履いていたうさぎさんパンツを脱ぎ終えると、一歩跨ぐようにしてハレンチなピンク色の布に脚を通した。
 パチンと肩紐をかけ終えると、言い知れぬぞわぞわとした感覚が一瞬、全身を駆け抜けたような気がしたが、それ以外はパンスト頭が言っていたように特に害があるような感覚は無かった。確認のために姿見が見たかったが部屋にはなく、うろうろキョロキョロしながら浴室のドアを開けると、ユニットバスの水垢で曇った鏡の中の自分と目が合った。みるみる頬が赤く染まっていく。
「無理無理無理無理!」と急いで部屋に戻ると脱いだブラウスとスカートを着なおして、気が動転していたせいで履き忘れたうさぎさんパンツをポケットにねじ込みながら玄関ドアを走り抜けつつ勢いよく開けると、ぎゃん! と短くおじさんの悲鳴。
「ちょっと! ちょっと待ってくださいよ! お願いします! お願いしますってば!」
 突き飛ばされた格好から未練たらしく叫びかけてくるパンスト頭の制止を振り切るように駆け去ってからの記憶はきれぎれで乏しく、どうやって帰って来れたのかも覚えていないが息を弾ませながら自分の部屋へ戻ってきた昔の私と今の私が、姿見の中でぴったりと重なり合う。違いはツインテールに結っているかそうでないかくらいなもので、モドリスカンクの効果は覿面だ。自分はもうお仕事を終えたと言わんばかりにベッドの上で眠っている彼(彼女?)にはそのまま眠ってくれている方が好都合なので放っておいて、鏡面に映る幼くなった自分の顔には懐かしさを、纏っているピンク色の布地には嫌悪感を強く覚えながら唇をかすかに震わせた。
「こんな格好で、あんなことを……?」
 手に写真を持って、姿見の中の自分とそれとを交互に見比べる。写真の中の私の真似を、おそるおそる試みる。ゆっくりと肩幅以上に開脚する。両膝を外側へ向け、直角になるよう腰を落とす。
「そうそう! その調子です! そこから指はこう! こうやって手刀みたいに……そうです! すごいすごい! 飲み込みが早くて助かります! ありがとうございます! ありがとうございます!」
「ちょっと黙っててよ! これ以上ヘンなこと言ったらもうやめるから!」とすごんでみると、パンスト頭が大げさに両手で口を覆って押し黙った。静寂の中で、言われたように両手を腰骨の辺りに沿わせて屈み込むように腕を下げてみる。
「……れ……ぐれ……」
「そんな小さな声じゃ駄目って言ったでしょう! なによりも発声が一番大事なんです! お願いします! お願いします!」
「ああもうわかったわよ! はいぐれ! はいぐれ! はいぐれ!」と、捨て鉢になって部屋中に響き渡るように素っ頓狂な声を張り上げると、パンスト頭は満足そうに何度も頷いている。これでいいのか、何がいいのかちっとも分からないまま、何度も腕を下ろしては上げ、上げては下ろしながら声を張り上げる。声を張り上げるたび、私の目の前に置かれた真っ白いおまるが怪しく光り輝いたように見えた。その動きはぎこちなく、ほんの数分でくたくたになってその場にへたり込んでしまう。汗でじっとりと全身が濡れ、これじゃお風呂に入った意味がないなと思いながらベッドの上で鼻ちょうちんを垂らしているモドリスカンクにちらりと目をやる。その隣に置いている目覚まし時計は深夜の1時を指している。お風呂に入ったのは確か夜の10時よりも前だったはず。
「え……?」と、計算が合わない意識と感覚の誤差に戸惑って意味もなく周囲をキョロキョロ見回していると、私の露出した肩にパンスト頭が馴れ馴れしくポンと手を置いた。
「上出来だぞ、ハイグレ人間! 見ろ! 俺のオマル号を!」と、パンスト男がにわかに尊大な口調で話しかけてくるが、疲労で頭が上手く巡らず、言われるままに目の前の真っ白いおまるを見てみる。先刻まで安アパートの床の上にしっかと鎮座していたはずのそれがふわりと中空に浮かんでいる。それが手品でも何でもないことは、なぜか本能的に理解できた。
「お前のおかげだ! これで俺は元の力を取り戻せる! どうだ! 役に立てて嬉しいだろう!」
「はぁ……ありがとうございます」と、反射的にお礼を述べて自分でびっくりする。なぜこんな男にえらそうにされてありがとうございますなんて言わなければならないのか。人助けをしているのは私の方なのに。これは少しガツンとお灸を据える必要があるなと思い、くたくたの身体を押して立ち上がり、パンスト頭に向かって先刻の出会い頭のようにピシッと人差し指を向けて言う。
「ハイグレ! ハイグレ! ハイグレッ!」
 思いと反して口から飛び出した言葉、意志と反して動いた身体。当惑、困惑、惑溺、惑乱。言い知れぬ嫌悪感が心身に駆け巡っている、はずなのに、姿見の中の私の頰はゆるみ、口角は引き攣っている。いつの間に眠りから醒めたのか、モドリスカンクがベッドの上から降りてきて、汗だくの私を不思議そうに眺めている。空が白みかけていた。意識が溶けかけていた。
「騙したわね! 害は無いって言ってたじゃない!」
「人聞きが悪いぞハイグレ人間。それに害なんて無かったじゃないか。お前らが『本来の姿』に戻ることの何が害なんだ?」と悪びれもせずに言うパンスト頭に対する怒りがこみ上げてくるが、それをはっきりと表現すると叱られてしまうかもしれないと思い、ぐっと口を閉ざす。閉ざしてしまうと今度は自分に対する怒りがこみ上げてくる。なにが叱られるかも、なんだ? もしそうなっても堂々としていればいいのに。堂々とハイグレしていればいいのに。頭にもやがかかってきたような未明の気分になる。
「口答えしている暇があったらもっとハイグレを捧げろ! 次は俺がよしと言うまで続けろ! 分かったな? ハイグレ始め!」

 目が醒めると強烈な痛みに襲われた。身体を丸めてそれをやりすごそうとするが、痛みはなかなか去ってくれない。手をついて這うように身体を起こすと、姿見の中の私の中から幼さが消えて、そこにはほとんど紐のような細さにまで引き絞られたピンク色の布を身体に巻きつけた裸体同然の女子高生の姿があった。
「ああ、そうか……」と漸次、モドリガスの効き目が切れた瞬間に思い当たった。まるで1年が1秒に凝縮されたかのような瞬間的な効力の揺り戻しによって急激に伸びた身長、膨らんだ胸部に引っ張られた布地が食い込む性的な衝撃に、目の前が真っ暗になったのだった。
 もう一度身体を丸めてゆっくりと慎重に食い込む紐を肩から外していく。右肩を下げ左肩を上げ腰を左に右によじりしているが、なかなか外れてくれない。もういっそハサミかなにかでバッサリ切ってしまおうか、と考えが頭をよぎった自分に瞬時、脳が沸騰しそうな怒りが頭のてっぺんからつま先まで駆け巡った。
「はあ?」と実際に口に出して怒りを露わにしてみると少し気が楽になった。神聖なるハイグレにハサミを入れる? 何を血迷ったことを言っているんだろう、私は。
 苦心して脱ぎ終えると、どっと疲労が襲いかかってきた。それが昨夜行った運動にかかる負担から起因しているわけではない、ということは本能的に理解できた。こうしている限り、この苦しみは二度と私の中から消え去ってはくれないという暗い確信を持つととても荒んだ気持ちになる。もう一度モドリガスで着用可能な身体に戻ってみるか? とモドリスカンクの方に目をやると、たっぷり睡眠を取って活力に満ち満ちているのか、嬉しそうに鼻をフンフン鳴らしている。
 若返っても一時的なその場しのぎにしかならない。意を決して嫌々に服を着ると、階下へ降りて朝食を摂る。リビングには朝食を作り終えたお母さんがひとり。お父さんは休日出勤、お兄ちゃんはお昼まで起きてこない。トーストをかじりながら、昨夜なにか物音が聞こえなかったかとお母さんに訊いてみたが、首を傾げている。あんなに大声を張り上げていたのに。
「じゃあ、これは何かわかる?」
「あら、懐かしい写真ね。唯がパンスト兵様に忠誠を誓っているところよね」
「そうそう。あの頃の私、ちゃんとパンスト兵様に失礼のないようお仕えできていたかしら?」
「ええ、もちろんよ。立派なハイグレ人間として、パンスト兵様もとてもお喜びになられていたわ」
「そう、良かった……ねえ、お母さん?」
「なに?」
「ハイグレ人間って何?」
「え……?」
「パンスト兵様って誰?」
「誰って……誰だったかしら……変ねぇ私、自分で言ったことなのに……ねえ唯、唯?ちょっと待って!」とお母さんが引き止めようとするのですっくと席を立ってごちそうさま、と声をかけ、そのままリビングを後にした。

 呼び鈴を鳴らすと、予想に反して結城くんではなく美柑ちゃんが玄関口に出て来た。白いブラウスに黒いミニスカート、赤い靴。どこか見覚えのある服装。抱え持ったモドリスカンクを私から受け取ると、美柑ちゃんが丁寧に何度もお礼を言う。
「リトったら昨日の夜もずっと探していて、今朝も朝一番に家を出たっきりで……どこで見つけたんですか?」と美柑ちゃんが訊ねるので、昨日結城くんにしたように適当に道順をでっち上げて説明する。騙されているとも知らずに得心したように頷いて聞いている彼女が滑稽に見える。聞き終えてもう一度「ありがとうございました」と、ぺこりと頭を深々下げて礼をする美柑ちゃんの肢体を眺める。あの頃の私と同じ年頃の、ほっそりした身体に膨らみかけている胸部。真ん中で束ね上げられ左右から垂れた髪で彼女の視界が遮られているのをいいことに、踵を浮かせてその無防備な背中からお尻の辺りまでじろじろと覗き込み、想像の上で先刻私が着ていたピンク色の神聖なるハイグレを彼女にも着せてみる。とても良く似合っている……。
「どうしたんですか、古手川さん?」
「え? ううん、なんでもないわ。それより美柑ちゃん、いま暇かしら? この仔を見つけた時に、とても面白い場所を見つけたんだけど、よかったら一緒に行ってみない?」と私が言うと、唇に指を当てて少し考えこんでいるような美柑ちゃんの表情。
「う〜ん、行ってみたいですけど、まだお洗濯終わってないしなぁ……お布団も干したいし……」
「大丈夫よ、すぐそこだから大して時間もかからないし。それにすぐに済ませたら、その足でこの仔を探し回ってる結城くんに声をかけに行かなきゃ、彼の徒労が気の毒だわ」
「それもそうですね……済ませる?」と、私の言葉尻に眉根をひそませた美柑ちゃんの腕を半ば強引に掴んであの文化住宅の一〇六号室を目指して歩を進める。あれほど探し回って見つからなかった場所への行き方が、今では不思議なくらい鮮明に、まるで自分の家へ帰るように辿り着けるという確信に思い当たると、手土産が用意できた嬉しい誤算も手伝って、えも言えない充足感がすでに私の胸いっぱいに広がっていた。

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