尖兵の1日

 先刻から全力疾走しているせいか、額から勢いよく滑り落ちた汗の滴が睫毛にぶつかって細かく砕けた。その汗の玉の欠片が右目に飛び込んできたせいで、私は我に返った。いや、集中力をかき乱された、と言う方が正しいのかもしれない。こんな感覚は生まれてこのかた味わったことが無い。脇目も振らずに「ご命令」に従うことと、他への注意力が散漫になることとの区別が付かなくなってしまっている。私が私でなくなる感覚、を感じる。ああ、ダメだ、ちゃんと集中しなきゃ……。
「おーい、全隊止まれー」
「「「ハイグレッ!!!」」」
「「「ハイグレッ!!!」」」
「「「ハイグレッ!!!」」」
ご主人様の「ご命令」が鼓膜に届くや否や、私たちは号令の「ハイグレ」を3回、後ろの方から順繰りに発していく。私は前列を走っているので、最後の3回目の号令に合わせて大きく「ハイグレッ!」と叫んだ。同時に、山道を踏みしめる揃いのブーツの小気味良い足音が一斉に止んだ。当たり前の話だけど、コンマ1秒のズレも生じない。「ご命令」は絶対なのだから。鳴り止んだ足音の余韻が、夏の盛りの深緑を縫うようにして辺り一面に響き渡る。
「ハイグレーッ!」
隊列のちょうど中心にいる「15番さん」の号令と共に、私たちは両手に抱え持っていた黒光りするハイグレ銃……偉大なるハイグレ魔王軍から賜った、私たちの命よりも価値のあるハイグレ着せ替え洗脳光線銃……の銃口を上に向け、平らになっている銃床を地面に突き立てる。そして直立不動の体勢のまま、上空の一点を一緒に仰ぎ見た。ああ! ああ! もう30分以上もお目にかかってなかったご主人様が! ご主人様の凛々しいお姿が私の視界の中に!
「「「「「ハイグレッ!! ハイグレッ!! ハイグレッ!!!」」」」」
私たちは一斉にご主人様に「ハイグレ」を捧げた。同時に「ハイグレ」を行う甘い快楽が頭の芯を突き抜けて、口の端からよだれがだらしなく漏れ出てしまう。ご主人様の御前ではしたないのは承知のうえで、むしろ喜んでくださるので他の人たちも遠慮なく痴態を晒している。
「なーんか、やる気のないメス犬が一匹いるみたいだなぁ」
瞬時に、私の周囲の人たち、私と同じ赤色の「ハイグレ」を着た人たちが私の側から離れる。見ているだけでうっとりとする美しいデザインの「オマル号」に颯爽と跨って上空から私たちを睥睨するご主人様の目には、私ひとりがまるでスポットライトを浴びているかのようにポッカリ浮かび上がっている格好だ。……下顎とヒザががくがくと揺れてしまう……。疲れているから? 怖いから? 嬉しいから?
「おい、9番」
「ひゃ、ハイグレッ!!」
思わず声が上ずってしまった……。これは、嬉しいから。ご主人様が私の「名前」を呼んでくださった! しかし、呼ばれた理由は褒められたものではない。私は先刻「メス犬」と呼んでいただいたのを心のなかで強調しながら、砂質の荒い山道に四つん這いになり、勢いよく汗に濡れた額を地面に擦り付けた。
「申し訳ございません、パンスト兵様ッ! ハイグレ人間9番! 卑しくもハイグレ魔王軍の末席を汚す身分にありながら、賜った任務の最中であるにもかかわらず瑣末な考えに心を乱してしまいました! どうかこの愚かなハイグレ人間9番に厳然たる罰をお与えくださいッ!」
「ハイグレ人間」になる前までは口にすることなんて考えもしなかった口上がすらすらと述べ出てくる。いかに未洗脳者だった頃の私が下劣な死んで当たり前の存在だったのかが痛いほど理解出来る。言うまでもなく、人類は「ハイグレ」を着てようやく生きることを許されるのだ。「ハイグレ光線」を浴びるのは、まっとうな人間として生きるために必要な知識を偉大なるハイグレ魔王様から授かる栄誉に浴することと同義なのだ。まあ、私のように根っこが腐った愚かで無能なハイグレ人間は、今から殺されてしまうのだけれど。
「行軍中に自分の脳みそで物を考えるなんて無作法を……」と、周囲のハイグレ人間たちが白い目で私を見ながら嘆く声が聞こえる。いや、実際には何も言っていないのだけれど、みんなそう思っているに違いないのだ。ああ、もっと生きていたかったなぁ、もっとご主人様のお役に立っていたかったなぁ。なんて大それた行いをしてしまったんだろう……せめてもっと哀れっぽく見てもらえるようにと、私は土下座をしながら自分のお尻をご主人様によく見ていただけるよう高く持ち上げた。

 陽が傾き始めた頃、私たちは山中の見晴らしの良い小高い丘の上で、ご主人様を中心に周囲への警戒線を張り巡らしながらも、隊列は解除したまま思い思いの位置で休息を取っていた。結局、私は殺されずに済んだ。メス犬のようにお尻を持ち上げたのが功を奏し、ご主人様が笑って許してくださったのだ! 私がぼろぼろと涙を零しながら感謝の言葉を何度も告げると、ご主人様は興をそがれてしまったのか、そのまま「未洗脳者狩り」の任務の一時中断及び私たちへの休息を申し付けてくださり今に至る。
 隊列の形成を解かれると、私たちは自分で物を考えることを許される。任務遂行中はご主人様に命じられるまま、一様に唇を真一文字に結び無表情を保っている私たちも、休息の間は自由に雑談したり、他愛のないことで笑ったりすることも許される。とはいえ、私の周りには誰も寄り付いて来ない。あんな失態を冒してしまったのだ、無理もない。地面に突き立てたハイグレ銃に手足を絡めて座り、ひとりで未洗脳者がいないか警戒しながら休んでいると、後ろから柔和な笑みを浮かべた「27番さん」がやってきて私の隣に腰を下ろした。
「大丈夫? 9番ちゃん」
「27番さん……私なんかと話してると、『青色』の人たちに嫌われちゃいますよ」
27番さんは私のお母さんと同い年だそうで……にしてはあまりに若々しく見えるのだけれど……私と年近い娘さんがいるので私のことをよく気にかけてくれる。いま私が頭の後ろで髪を纏め上げているこの鼈甲のバレッタも、「行軍中にその綺麗な長い黒髪は、ちょっと邪魔になっちゃうものね」と27番さんが貸してくれた物なのだ……私よりも綺麗で長い髪をしているのに……。その優しさが少し鬱陶しくもあり、ついつい険しい語調になってしまった私の頭を27番さんが撫でた。
「いいのよ、気にしないで。あーあ、私も一桁台の名前さえ頂ければ、9番ちゃんと同じ赤色のハイグレを着て近くで貴女を見ていられるのになぁ」
私たちにそれぞれ割り振られた番号は、ハイグレ魔王軍の尖兵として徴発された際、直属のご主人様じきじきにお与えくださった「名前」。この隊では1番から10番は赤色のハイグレを着て、隊列の前方に置かれる。行軍の際にご主人様の目となり手となり盾となる。11番から20番はピンク色のハイグレを着て、隊列の中央に置かれる。号令の中核を担ったり、ご主人様の御身を守る最も重要な位置を占め、兵站や予備の兵装を運搬する貴重なオマル号に乗る重責を伴うハイグレ人間も数名、ご主人様に随行している。最後の21番から30番は青色のハイグレを着て、上空で私たちを統括するご主人様の背後をお守りし、空や隊の背後に常に目を光らせる哨戒役を担っている。オマル号が不足気味でハイグレ銃が余り気味な現状、この方式を取るのが未洗脳者狩りに最も適した采配なのだそうだ。さすがはご主人様……この御方に全てお任せしていれば何も間違いはない。考えることをやめて「ご命令」に従うと、とっても気持ちが良い……。
「パンスト兵様から頂いた名前を悪く言うのはダメですよ、27番さん。15番さんに告げ口しますよ」
「うふふ、冗談よ、じょーだん。私には貴女やパンスト兵様を後ろから守る方が性に合ってるもの。だから貴女も安心して任務に集中しハイグレッ! ハイグレッ!! ハイグレッ!!!」
会話の最中に弾けるように立ち上がった27番さんが「ハイグレ」を行う。急に何を……? と一瞬ポカンと口を開けていた私もその行動の意味をすぐに把握して並んで一緒に「ハイグレ」を行う。
「未洗脳者発見! ハイグレッ!! ハイグレッ!!! ハイグレッ!!!!」
 私たちはいち尖兵として自律している時は「ハイグレ」だけで意思疎通を行えない。まったく、なんて低劣な脳みそをしているんだろう。周囲の人たちも私の声でようやく立ち上がり、ハイグレ銃を構え始めた。27番さんは急いで遠くの木陰に身を隠した未洗脳者に向かってハイグレ銃の引き金を引き始めた。ぴちゅんぴちゅんと安っぽい射出音とともに、銃口の先端に取り付けられているハイグレ光線収束制御玉からピンク色の太い洗脳着せ替え光線が一筋ずつまっすぐ飛び出すが、狙いが甘いため、薄汚れた白いワンピースを着た未洗脳者からは大きく逸れて草むらの中に何度も着弾する。元々は主婦だの女子高生だのをやっていた私たちだ、ご主人様にご命令していただかなければ銃の扱いなんてまともに出来るわけがない。私は急いで振り返り、ご主人様に向かって跪いた。
「申し上げます、パンスト兵様! 未洗脳者を1名発見致しました。どうか我々に、追撃の『ご命令』を!!」
ちらりと丘の中心を見やると、ご主人様はピンク色の11番さんを椅子にして座り、12番さんに肩を揉ませ、両隣に13番さんと14番さんを立たせてその胸や秘部をまさぐって楽しまれていた。私の声に反応される様子はなく、隣で団扇を扇がせている15番さんに何やら耳打ちしている。それをふんふんとわざとらしく首を頷かせながら聴き終えた15番さんが意地悪そうに歪んだ笑みを浮かべて口を開いた。
「それくらいぃ~、見つけた自分たちでなんとかしなさいよぉ~、私たちは忙しいんだからぁ~! ねっ、パンスト兵様!」
「15番の言う通りだ。いちいち『管理』させるな、さっさと狩って来い!」
今のが「ご命令」ではないのは、私の心が浮ついたまま研ぎ澄まされて行かないことから容易に理解できた。こういう時は赤色の人たちで追撃するのが不問律となっているので、私を含めて10人全員が了承の意を表すためにご主人様の方へと向き直った。
「「「「「ハイグレッ!! ハイグレッ!!! ハイグレッ!!!!」」」」」
「ハイグレ」をし終えると、そのまま逃げ出した未洗脳者目掛けて私たちはハイグレ銃を担ぎ上げながら一斉に駆け出した。不揃いな隊列、不揃いな足音、不揃いな思考能力……ハイグレ光線を撃つのをやめた27番さんが心配そうに私を見守る視線を背中に受けながら、一気に丘を降った。

 とっぷりと日が暮れて、蜩が鳴いている。結果的に私たちは、未洗脳者を合計4名発見した。父親と母親、それに2人の姉妹からなる一組の家族で、我々ハイグレ魔王軍の手を逃れてこの山に潜伏していたようだ。ふだんは穴倉に身を隠し、必要に応じてこのキャンプ場の設備を利用して今日まで逃亡生活を営んでいたとは、なかなかしたたかな未洗脳者どもだ。食料調達のために表に姿を現したのを27番さんが発見したのが運の尽き、今では仲良く緑色、水色、黄色、黒色の「ハイグレ」を着用して、幸福な表情を浮かべている。
「ハイグレッ! ハイグレッ! ハイグレッ!」
「ハイグレッ ハイグレッ ハイグレッ」
「はいぐれっ。はいぐれっ。はいぐれっ」
「はいぐれえ……はいぐれえ……はいぐれえ……」
うらぶれたキャンプ場に響き渡る彼らの嬌声を耳にしているのは私ひとりだけだった。他の人たちは未洗脳者を無事に転向出来たこと、このキャンプ場を発見したことを報告するため、ご主人様のいらっしゃる丘へと引き返していた。報告の後、ここを拠点に夜営する手はずになっているが、前後不覚なまま飛び出し、獣道を駆けずり回ったせいで丘へ戻る道筋など覚えていない。なので時間がかかるのも無理はないが、ここでも自分たちの腑甲斐無さに打ちのめされて気分が暗くなってしまう。
 せめてご主人様に少しでも喜んでいただこうと、手持ち無沙汰な時間を活用して私は彼らの持ち物を接収し、キャンプ場の炊事場で包丁を振るっていた。管理している人間がいないにも関わらず、米を研いだ水も綺麗で、飯盒にかけたかまどの火も安定していて助かる。切り終えた人参とじゃがいもと、別個のフライパンでそれぞれ炒めている玉ねぎと牛肉を眺めながら、私はご主人様の尖兵となって初めて、自分で考えて行動することに快感を覚えていた。重いハイグレ銃を担ぎ未洗脳者を追い回していたせいでへとへとになっていたが、手際よく調理工程を組みながらてきぱき働いていると疲労感も心地よく感じるし、何よりご主人様に私が作ったものを食べていただける……そう考えると胸が躍った。具材を寸胴で煮込み、おたまで灰汁を取りながら、私の頭を撫でるご主人様のお姿を想像すると、下腹が熱くなってしまい、居ても立ってもいられなくなる。基本的に、私たち「赤色」と、27番さんたち「青色」が直接ご主人様と触れ合える機会など存在しない。身の回りのお世話は「ピンク色」の人たちが行うことになっているし、その役回りの大半はご主人様の寵愛を一身に受ける15番さんのものだ。アイドルみたいに容姿端麗……じっさい、洗脳される前の彼女を知らない人などいないと言っても差し支えないだろう……なので特別扱いされて、すっかりいい気になって他の人たちに居丈高に接するようになってしまっている。……私だって……いや、余計なことは考えてはいけない。こんな下らないことを想ってしまう自分が忌々しい。はやくご主人様に心を支配していただきたい……。

 宵闇が周囲を包み込み始める。カレーが完成してしばらく経つと、ご主人様たちがキャンプ場へといらっしゃった。私は炊事場から出て行き、私の分だけ前列が欠けたにも関わらず美しく整列した本隊に向かって「ハイグレ」をした。
「ハイグレッ! ハイグレッ!! ハイグレッ!!!」
「へいへいごくろーさん。おー、結構イイ所じゃん。お前の後ろにいるのが追ってた未洗脳者どもか? んだよ、家族連れじゃん、クソ面白くもねえなぁー。オッサン好きと熟女好きと幼女好きのヤツらにくれてやるか……おい、お前ら!」
ご主人様の「ご命令」に、跪いていた4人がすっくと立ち上がった。「ハイグレ」を着ることで紅潮していた先刻までの表情は消えてなくなり、無表情のまま彼らは了承の「ハイグレ」を行った。
「「「「ハイグレッ!! ハイグレッ!!! ハイグレッ!!!!」」」」
思い思いに気持ちよさそうにしていた先刻までの「ハイグレ」とは打って変わって、尖兵さながらの一糸乱れぬ「ハイグレ」を行った彼らは、拳を握った両手を腰の位置にやり、一目散に下山するため駆け出して行ってすぐに姿が見えなくなった。「ご命令」の内容は私には分からないが、きっと、ご主人様たちの本営へと行ったのだろう。そこが彼らの目下「帰る場所」なのだから。
「んじゃー今夜はここに泊まるか。……ん? なんかイイ匂いがするなぁー」
「あ、あの!」
立ち上がって報告しようとすると、ご主人様と正面から目が合う。……下顎とヒザががくがくと揺れてしまう……。今度は頬が赤くなるのも感じる。
「どうした9番? 言いたいことがあるならさっさと言え」
「あ、あの……! 私、パンスト兵様のために……その……」
「ご命令」されたのにも関わらず、私は二の句を継ぐことが出来ない。「ご命令」なのに……最悪だ、もう死んじゃいたい……。
「パンスト兵様ぁ~! すごいですよぉ~、カレー! とっても美味しそう! さっきの家族連れが作ってたみたいですよぉ~、一緒に食べましょ!」
炊事場の方から15番さんの声がする。その声にご主人様が振り返った。
「マジでかー、今行くわ。おい9番、何にも無いならいちいち呼び止めんなよな、使えねぇヤツ……。おら、さっさと向こうに混ざってテント張るの手伝って来いや」
「……ハイグレッ! ハイグレッ! ハイグレッ!!」
「ハイグレ」をし終えると、私の心が落ち着きを取り戻していく。心が研ぎ澄まされていく。ご主人様は炊事場の方へ歩きだしていき、私は頬が冷たくなっていくのを感じながら、ご主人様の背を、その向こうの炊事場を見やる。ぴょこりと戸口からあざとく顔を覗かせている15番さんが私の視線に勘付くと、にやりと笑ってわざとらしくあっかんべえをするが、それを見てももう特に何も感じない。そうだ、考えるのをやめよう。「ご命令」に従うと、とっても気持ちが良いのだ。回れ右をすると、「赤色」と「青色」が混じってテントとタープを急ピッチで張っているのが遠くの方に見える。そこには脇目も振らずに働いている27番さんも居た。走り出した私の胸は弾んでいた。

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